昭和58年に発生し、津波で100人が犠牲になるなど秋田県を中心に計104人の死者を出した日本海中部地震から26日で30年。日本海側を震源とする地震や津波は研究が遅れていたが、東日本大震災を受け、国が発生予測の見直しを始めたほか、各自治体でも対策強化を進めている。地震空白域があるとされる日本海側の防災に今、あらためて注目が集まっている。


 83人が死亡するなど大きな被害が出た秋田県では24日、発生30年を前に各地で防災訓練が行われた。県庁では県や県警、自衛隊など関係機関の約90人が、マグニチュード(M)8・7、最大震度6強の巨大地震と10メートル以上の大津波が襲ったとの想定で情報伝達訓練を実施。小学生13人が津波の犠牲となった男鹿市では、高校生ら約110人が参加し、通学する電車から約400メートル離れた避難場所に逃げる訓練が行われた。


 日本海中部地震では、当時、日本海を震源とする地震で大きな津波がしばらく発生しておらず、住民の間に「日本海側には津波が来ない」という誤解があったことや、震源が陸に近く、津波の第一波到達が地震発生からわずか7分後だったことなどが被害を拡大させたといわれている。


 秋田県は地震発生日の5月26日を「県民防災の日」と制定。20〜26日までを「県民防災意識高揚強調週間」とし、各種防災訓練の実施や防災意識の啓発に取り組んできた。当時はほとんどの自治体になかった住民への情報提供のための防災無線設置も進め、今は全国瞬時警報システム「Jアラート」などを含めた情報伝達網を整備している。


 とはいえ県総合防災課は「教訓をしっかり生かせたといえるほど、やれていないのが現状」とも話す。常に巨大地震の危機感を抱く太平洋側の自治体に比べれば対応は遅いのが実情だ。


 宮城県沖地震などの危険性が指摘されていた宮城県では、震災1年前の平成22年3月時点で、津波発生時の浸水域や避難経路、避難場所を記したハザードマップを沿岸15市町のうち14市町が整備。津波から逃げることができる避難ビルも計52カ所指定していた。


 それに対し、秋田県の沿岸8市町で震災前にハザードマップがあったのは3市のみ。避難ビルもわずか1カ所だった。


 そんな意識を変えたのが東日本大震災だった。震災後、沿岸8市町はハザードマップの作成・見直しを実施。避難ビルはこれまでに計48カ所指定された。


 さらに県は、日本海を震源とする地震が発生した際の「地震被害想定調査」を行い、昨年12月には震源として考えられる海域を南北に3つに分け、地震が3連動した際の津波高や到達時間などの想定結果を発表した。出てきたのは八峰町の最大14・36メートルをはじめ、各地で10メートルを超える最大津波高だった。調査委員会の部会長を務めた秋田大大学院の松冨英夫教授(59)は「今回は“想定外”という事態がないよう被害を想定した」と説明する。


 それまで考えもしなかった巨大津波の想定に、各自治体は戸惑いも見せる。能代市は現在建て替えを計画している市庁舎が津波の浸水域に含まれたが、「発電施設などの重要施設を上層階に設け、予定地に建てる方針」という。「対応の必要性は分かるが財源の問題もつきまとう。どこまで対応すればいいのか」。男鹿市の担当者もこうこぼす。


 それでも、松冨教授は強調した。「防災機運が高まった今こそ、しっかりした対応が求められている」 


 用語解説 日本海中部地震 昭和58年5月26日午前11時59分発生。震源は秋田県沖で震源の深さは14キロ、マグニチュード(M)7・7。当時の震度表示では秋田市、青森県むつ市などで震度5を観測した。死者は津波による100人を含む104人。験潮所で計測した最大津波高は秋田県能代市で1・94メートル。気象庁の現地調査では八竜町(現三種(みたね)町)で標高6・6メートル、東北大の調査では峰浜村(現八峰(はっぽう)町)で同14メートルまで海水が達した記録がある。